浮遊体アートマドレーヌシリーズを見て「生きたクラゲ」だと感じる人はとても多い。
しかし、それはたいていの人が、クラゲというものをたぶんじっくりと見たことがなく、水の中でふわふわしているもの=クラゲ という図式ができているために、そう認識するのであり、実は私のオブジェはクラゲの形とはまったく異なっている。
もっとホンモノそっくりのクラゲの形はできないかとの期待を周囲から受けたが、私自身の興味は全く逆の方向にあった。
つまり、自分のオブジェをより単純化し、人工的に交換可能な要素にどこまで置き換えていくと、人工物と生物との境界線が見えてくるのか? 人工物と生物を分けるその境界線はいったいどこにあるのかを感じるために制作してみたいと思った。
それは、おそらく自然の生命体が、バイオテクノロジーによって作られた人工臓器、義手、義眼、人工頭脳といった<人工物>に次々と変換された場合に、どこまでいくとそれは生き物ではなく、人工物と見なされるのかという問題にも似ているように思う。
またそのようにして次々とパーツを交換していって出来上がったサイボーグが、本来の生命感とは全く異なる超生命感を獲得するような表現ができないかと考えた。
「生命の捏造」では、記号的な「赤」と「青」2種類の色を用いたマドレーヌ3号型のオブジェパーツを用いて、 パーツ交換をするように、DNAスイッチを様々な方向にシフトさせ、ありえない進化を同時に果たした超生物の世界を表現したいと思った。
生命の捏造展の案内文には以下のような文章を寄せている。
―ハイパー人工クラゲは2重螺旋階段の夢を見るか?−
20世紀は良くも悪くもサイエンスが人類を変えた時代でした。
幕を開けたばかりの21世紀もやはりサイエンスが、なかでも分子生物学が牽引していく気配が濃厚です。
バイオテクノロジーを用いてアルジャーノン(注)を作ることが善か悪かという議論を超えて、
アルジャーノンは様々な形で既にこの世界に存在しています。
私たちはいきているうちに、より美しく見開かれた瞳や、より明晰に働くスーパー頭脳の遺伝子を、
自ら選択して身につける時代が来るのかもしれません。
いやおそらくこんな話は今に限ったことではないのでしょう。
私たちの祖先がウロコをまとって海から上がってきた頃は、いつの間にかその硬いウロコを脱ぎ捨てて、
すべすべとした肌を風にさらすことなど想像もしなかったように。
私たちはDNAのスイッチをかけかえながら、未来への2重螺旋階段を駆け上っていく存在なのです。
遠い未来、私たちは鏡にうつるどんな顔を美しいと思い、何を悲しみと感じて生きていくのでしょう。
ある日の休日、ひとつの風景。
もはや支えきれない重たい脳を、バルーンで浮かせた私たちの子孫は、癒しの歌を歌う空中浮遊クラゲを肩先に漂わせながら、
アルジャーノンの是非で揺れていたセンチメンタルな時代を、遥かかなたに思いやるのでしょうか。