商家の祖父 技術者の父 絵を描く母
奥田エイメイ浮遊暦
「人体」「言語」「日常」「空間」「物体」の 浮遊をテーマに活動中
1964年 大阪に生まれる。子供の頃の夢は宇宙飛行士あるいは世界中を飛び回る新聞記者。奈良市立小・中学校を卒業後、奈良県立奈良高校入学 数学・物理・化学が得意。無茶苦茶な絵を描くため美術はクラスで最低点を取っていた。
1983年 京都大学工学部入学 砂漠で石油を掘る技師になりたいと思い資源工学科に入学するものの、大学寮で同室だった文学部の8回生に刺激を受けて文学を志し、小説・戯曲を書き始める。またこの頃から山登り特にロッククライミングに熱中する。 その後5大陸最高峰を目指し、ヨーロッパ、アフリカ、南アメリカの最高峰に遠征。「浮遊」に必要な方法はすべて山で学んだ。
1988年 シャープ株式会社入社 エネルギー変換研究所勤務。家電機器の音エネルギー(騒音)低減の課題に取り組む。その後、音の出ない緩やかに駆動するマシンを人工筋肉を使って実現できないかと考え自主研究をスタートさせたことが、浮遊体アートの制作につながる。また仕事の傍ら学生時代に引き続いて小説を書いていた。 <うたたね>、<まなざし>、<南島物忘れ紀行> など
1990年頃 芝居の戯曲を書きはじめる <耳かき屋ひゃん>、<移動観覧車>、<戦湯番台ジャック> など。演劇実験室「浮遊代理店」を結成し劇団代表として戯曲・演出を担当。京都大学西部講堂等で上演する。
1995年頃 人工筋肉研究を提案し、副社長直轄プロジェクトリーダーとして本格的に研究活動を始める。
1998年頃 人工筋肉研究の中断指示が下る。浮遊体アート原始バージョンができていたため提案するもののテーマ却下となり、その後シャープ株式会社を退社することとなる。
1999年 学生下宿を異空間に変換する「四畳半くねりバー」を京都市立芸術大学近くのアパートで運営。ここで浮遊体アート原始バージョンを展示。
2000 年 「四畳半くねりバー」を奈良に移転、ギャラリーを自主施工しながら晩は酒を飲む「工事現バー」を経てカフェ&バーinギャラリー「浮遊代理店」を開く。また浮遊体アートの制作を本格化し、制作工房「浮遊FACTORY」を発足させる。
2001年 くねりランプ展 ・・・ギャラリー浮遊代理店(奈良)
2002年 想像の海展 ・・・ギャラリー浮遊代理店(奈良)
2003年 記憶の捏造展 ・・・ギャラリー浮遊代理店(奈良)
2003年 10years after 展 ・・・インサアートセンター(韓国 ソウル)
2004年 想像の海展 ・・・ギャラリーハルシオン(大阪)
2004年 生命の捏造展 ・・・ギャラリー浮遊代理店(奈良)
2005年 育黄展 ・・・ギャラリー浮遊代理店(奈良)
2006年 重力の捏造展 ・・・ギャラリー・アット・ザ・ハイアット(大阪)
2007年 White&Black展 ・・・南港ATC浮遊体アートギャラリー(大阪)
2008年 Beat●Red●Dot!!展 ・・・ギャラリー・アット・ザ・ハイアット(大阪)
2008年 浮遊体アート展 ・・・ギャラリー・アット・ザ・レクサス泉北(大阪)
2009年 Floating flower & Cocktail glass展 ・・・浮遊FACTORYギャラリー(奈良)
世界中をめぐる新聞記者になりたかった。
宇宙飛行士になって地球を見たかった。
アラブの石油を掘る技術者になりたかった。
植村直巳のような冒険家を目指して
世界中の山を登ってきた。
見たことのない人工筋肉製ロボットを発明して
世界中をあっと驚かせたかった。
夜更けにふわふわと浮き沈みする
水中オブジェを見つめていると
まるで自分自身の軌跡のように思えてくる。
オブジェ制作者の経歴としては、
あまりにもとりとめがないので、
経歴を浮遊暦としてみた。
どうして今この水中オブジェを作る仕事をしているのか
本当に不思議に思うことがある。
でも、たぶんこれから先もずっと
この仕事を続けているのではないかと感じている。
小学校の先生向けのある雑誌に
「なりたいこと、なれないこと、ならねばならないこと」
と題した文章を書いたことがある。
「なりたいこと、なれないこと、ならねばならないこと」
私はいま浮遊体アートという、柔軟な特殊素材を用いた水中オブジェ制作を仕事にしている。しかしもともとアートの仕事につきたいと思っていたわけではなかった。以前は人工筋肉を研究開発する仕事をしていた。その頃の素材開発の経験が今のアートオブジェを作る仕事につながっているわけだが、当時私はアーティストを夢見ていたわけではなく、人工筋肉の優秀な開発者になることを目指して仕事をしていた。
人工筋肉の素材には、電気や化学物質といった刺激に対する応答性や繰り返しの変形に耐えうる強度が要求される。私は山ほど異なる種類の材料ピースを作り、その強度を測定する実験にあけくれていた。強度試験用のピースは、水を張ったビーカーに沈めて保存する。実験に疲れた私はときおり、ビーカーを落ちていく試験用ピースの姿に心を奪われた。この試験用ピースには成型不良による薄いバリが付着していることがあり、その薄膜が水中をふるえながら落ちていく姿に魅力をおぼえるのだった。思えばこのときが、この素材に秘められた、かすかな美しさとの出会いだった。
数年間の研究開発期間の後、会社との約束の期限までに私は素材を立派な人工筋肉に育てることができず、上司にプロジェクトの打ち切りを通告された。この素材から工業用素材としての敏捷な反応性や強靭さを私は引き出してやることができなかったのだ。だが私は数年間共に挑戦を続けてきたこの素材と別れ難いものを感じていた。素材とはいわば一緒に戦ってきた同士だった。彼と共に生きていくには残されたたったひとつの長所・・・予感された美しさに賭けるしかなかった。美しさを引き出すため私は研究者からアーティストに生まれ変わろうと考えた。それは理系で育ち工学部を卒業し大手メーカーの研究者であった私にとって、家族や周囲を心配させ期待を裏切る行為だった。しかし私にはそのときアーティストになること以外に賭けられるものがなかった。奥田英明という与えられた名前を奥田エイメイと書き換え、私は浮遊体アーティストと自ら語って活動を始めた。
自分を、人を、子供を、モノを、あんなふうに育てよう、こんな風にしたいと思っても、なかなか思ったようにはいかないことが多い。でもいくら出来損ないに思える自分であっても、モノであっても、ひとつくらいは、かすかに光っている部分があるように思う。
かすかに光るものに賭けてそれをじっくりと生かし育てていく覚悟を決め、そのために自分が生まれ変わる勇気を持つことで、これまで見えてこなかった風景が感じられ、アートを育てていくという新たな目標が感じられるようになってきた。
新たな道を踏み出してから、さまざまな出会いがあった。初期の拙いオブジェを買っていただいたお客様には本当に育ててもらった。スタッフにも恵まれた。家族には心配ばかりかけてきたが、力の限り支えてくれた。今から思うと奇跡的にいろんな人々に助けてもらいながら、ここまで新しい美の形への挑戦を続けてくることができた。
しかし「好きなものを作る道に進めてよかったですね」、と言われ、研究者だった昔の自分を思い出し、ふととまどうこともあった。アーティストだと名乗っている自分に気恥ずかしさを感じることもあった。そういうときに、自分にとってモノづくりとは、いったい何なのかという根源的な問いと出会った。注意深く思い返してみると、研究者の頃はできるだけ意識の外におこうとしていた、様々な表現に対する強い思いがよみがえってきた。一時期、趣味として取り組んでいた舞台美術のことや、幼い頃、揺れている水に不思議な美しさを感じていたことなどが、自分の創作のルーツとして記憶に立ち上ってきた。
モノ作りとは、不思議な祈りにも似た行為だ。可能性は未来に向けてだけではなく、新たな起源(過去)との出会いの可能性をも無限に秘めているように思う。
研究・技術の仕事を主にしてきたが、ずいぶん長いこと私は言葉に興味があり、仕事のかたわらで様々な文章を書いてきた。
今も、浮遊体オブジェを作る仕事をしているが、オブジェそのものよりも、オブジェを媒介に自分は何が語れるのか、めぐり合った人からどんな言葉(反応)がかえってくるのか、そして何より、そうした言葉が自分と自分のオブジェを次にどこへ導くのかということに興味がある。 大多数のアート制作者は、自己の制作に対して「どう感じてもらっても自由である」と語り、反応としての言葉は、意識の埒外に置いているように感じるが、そういう意味で私は少数派になるのだろう。
言葉そのものをオブジェにこめて変化・変形させた作品「育黄」展の冒頭に私は以下のような文章を載せている。