生まれいづる形
Birth shape of an artificial life
Eimei Okuda
2007

生まれいづる形
奥田エイメイ 2007年

人工筋肉系樹脂・水槽・照明
制作 奥田エイメイ&浮遊Factory
写真 Eimei Okuda

 私の制作したものを見たときの、ある一定のパターンの反応がある。「これはホンモノ(生き物)ですか」と問いかけ、ホンモノ(生き物)でないことが分かると、「あ、ニセモノ(ツクリモノ)ですか」と納得し、それ以上は何も聞かないというものである。その反応は、ツクリモノであると判明したとたん抹殺の道しか示されない、映画「ブレードランナー」のレプリカント達の運命に共通したものがあった。

 ホンモノそっくりに紙に描かれたクラゲの絵を見て「ニセモノのクラゲ」と言う人はいないが、ホンモノらしく動くクラゲオブジェはなぜ「ニセモノ」と呼称されるのだろうか。

 <作りモノ>には生命感があっても<生きモノ>だとはいえないのか? 生物と非生物の狭間は何なのか? アート作品はすべてツクリモノであるのに、ニセモノと呼ばれないその一線はどこに引かれているのか?・・・ますます混乱してくるテーマの中で、記憶の捏造、生命の捏造、生まれいづる形と作り続けてきて、自分自身の制作パターンのマンネリ化してきた部分が見えてきた。

 生物ではありえなさそうな複数の発生の源の形を作り出すこと、そして人工色的発光色素等を用いて一見ありえなさそうな色彩パターンを使うことにより、逆に「ニセモノ」とは呼ばせないためのモノづくり。そして、なにより、同じ制作型を用いて異なるパターンを増産していく手法。(水中でバランスよく生命感を持って動くオブジェをつくるための、立体型の作成は困難を極める。)ひとつの新しい作品のための制作型の作成には多大な時間と費用がかかる。そのため、同じ制作型を用いて、色を変える、組み合わせを変える、型の一部を使って手描きを行う等の手法を様々に開発してきた。

 しかし、自分でもこのクラゲのバリエーションを見るのが飽きてきた。

 とにかく、そろそろネタもつきた・・・ということ。新しいネタを考える必要があった。

 以下の絵は、私ではなく、浮遊体アートの制作スタッフに自由な発想で描いてもらったものである。(絵をクリックすると拡大表示します)

 これらの絵のオブジェ化への実現には費用と時間がかかるため、パトロンがつくことで可能となるだろう。このような自由な絵は今や私にはかけない。おそらくそれは私の想像力の欠如というよりも、経営をやりくりしながらの頭には、いかに形をシンプルにそぎ落とすか、組み合わせでバリエーションをつくるかといったアイデアばかりがほとばしり出てくるからである。